踊るアヒルと新たなる海賊:私たちが物語の深淵を侮るべきではない理由

初めて『プリンセスチュチュ』を勧められたとき、私は薄っぺらい軽蔑を隠そうともせずにこう言い放った。「お姫様とかチュチュとか、そういうのは私の趣味じゃないんだよね」と。

勧めてきたのは当時の大学のルームメイトで、寝室でウサギを飼っているような、ちょっと変わった子だった。「でもこれ、私の人生で一番のアニメだから。本当にすごいから絶対見て」。彼女(仮にオデットと呼ぼう)は、長年この作品に尋常ではないほどの熱を注いでいた。

当時の私はひどく拗らせたサブカルクソ野郎で、何かにつけて「芸術的な理由」がなければアニメを楽しむことすら自分に許せなかった。2000年代初頭という時代感もある。『ロード・オブ・ザ・リング』のオタクで毎日ティム・バートンのTシャツを着ているのは「アリ」だったが、『NARUTO-ナルト-』を見ているのを人に見られるのは完全に「アウト」だったのだ。私はアニメを好きであることをどこか恥じていて、純粋なエンタメとして消費するのではなく、高尚なものを嗜んでいるのだと自分に言い聞かせる必要があった。

ミシガンの田舎町と、内面化された偏見

オデットの衒いのないオタクぶりを、私は密かに羨んでいたと思う。彼女はFacebookに歪なファンコミックを投稿し続け、いくら練習してもデジタルアートは一向に上達しなかった。彼女の出身はミシガン州のデイビスバーグ。毎年「カカシ装飾コンテスト」が開かれるような、法人化すらされていない極小のコミュニティだ。オデット自身も元バレリーナで、卒業生がたった18人しかいない地元の小さな宗教系の学校の同級生たちと練習に励んでいたらしい。

当時の私は僻み根性の塊だったから、その話を聞いて片眉を上げた。彼女はどう見てもバレリーナの体型ではなかったし、私自身もミシガンの田舎町出身だからわかるが、デイビスバーグのバレエなんてたかが知れていると見下していた。

今になって振り返ると、私は何年もの間、女性が主人公の物語を意図的に避けて生きてきたように思う。自己嫌悪のせいか、あるいは自身のクィアネスのせいで「普通の女の子たち」と共通点を見出せなかったからか。私はトラウマを抱えた、あるいは障害を持つゲイの男性が主人公の作品ばかりに惹かれていた。自分の書く小説にもその乖離は如実に表れていて、いわゆる「ヒロイン」と呼べるようなキャラクターを描けたのは、3作目の小説を書き上げたときが初めてだった。 女性が深みのあるキャラクターとして描かれないフィクションの多さが原因だと、もっと雄弁に語る人たちもいる。私も女でありながら、無意識のうちに「女の物語にはそこまでの価値がない」とすり込まれていたのだと思う。家父長制なんて本当にクソくらえだ。

メタフィクションとしての白鳥の湖

だから、オデットの隣に座って、子供だましの「みにくいアヒルの子」の焼き直しを見るなんて、自分のレベルを下げる行為だと思っていた。実際はアヒルで、バレエを踊る魔法少女のプリンセスが、甲高い声で終わりのない恋心を募らせる。その恋の相手であるミュトスという王子は、邪悪な大ガラスを封印するために自らの心を砕いてしまったため、感情を持たない抜け殻になっている。まあ、そんなお約束の設定にも耐えてやろうと高を括っていた。

ところがだ。ミュトスや大ガラスの娘、そしてアヒル自身でさえも、実はドロッセルマイヤー(そう、『くるみ割り人形』のあれだ)という風変わりな魔法使いの作家が未完のまま死んでしまったため、物語の世界から現実へ逃げ出してきたキャラクターだというのだ。

画面から溢れ出す圧倒的な演劇の知識には唸らされた。ダンサーの身体的な動きの描写はもちろん、『白鳥の湖』や『ジゼル』、『眠れる森の美女』といった最も有名なバレエ作品の根底にある民間伝承まで完全に網羅されている。チャイコフスキー、ムソルグスキー、シュトラウス、ドリーブといった巨匠たちの音楽が、トラウマとアイデンティティを巡るメタ認知的なおとぎ話にこれ以上ないほどシームレスに溶け込んでいる。ドイツ語のエピソードタイトルや、実在する人物と架空の人物が混在する奇妙でタイムレスな村の舞台設定も、1930年代に家族の半分がドイツから移住してきた私のルーツを心地よくくすぐった。

それに、芸術学校の同級生に、ケモノ(擬人化)ではなく学校の制服を着た「ただの喋る動物」がいて、誰もそれを気に留めずに一緒にバレエのレッスンを受けている世界観を愛さずにいることなんてできるだろうか? ワニディリア、アリクイナ、アルマジラン。彼らには私の心を全部持っていかれた。

悪役になるはずだった大ガラスの娘もまた、「醜い」人間の体で生まれてしまったが故に恐ろしい父親から虐待を受けていた悲劇的なキャラクターであること。さらには、王子を守る騎士ふぁきあが、物語の台本通りに役割を全うすれば真っ二つに引き裂かれる運命にあるため、自分の役割に徹しきれないこと。そこまで行くのを躊躇する彼を、一体誰が責められるというのだろう。

イーストブルーへ向かう新たな船旅

こうして『プリンセスチュチュ』は、私が勝手に築き上げていた「高尚なアニメファン」という虚勢をいとも簡単に打ち砕いてみせた。外見やジャンル、ましてや「少女向け」といったラベルで作品の深遠さを測ることはできない。その痛烈な教訓は、皮肉なことに、かつての私なら「王道すぎる」として真っ先に切り捨てていたであろう、あの巨大な海賊の叙事詩へと私の目を向けさせることになった。

2027年2月、モンキー・D・ルフィの冒険が全く新しい姿で出航する。尾田栄一郎による不朽の海賊譚が『THE ONE PIECE』として再構築され、麦わらの一味が再びイーストブルーへと旅立つというのだ。

物語の骨格と、それを支える桁外れの職人技の真価を知った今の私にはわかる。WIT Studio(『SPY×FAMILY』、『進撃の巨人』Season 1〜3)という卓越したアニメーションスタジオが、集英社、フジテレビ、東映アニメーションとタッグを組んで生み出すこのプロジェクトは、単なるノスタルジーの消費ではない。最先端の映像技術を駆使してイーストブルー編を再解釈する試みは、私たちが見慣れたはずの景色に全く新しい風を吹き込むはずだ。

公開されたルフィの幼少期、フーシャ村でのワンシーンを切り取ったビジュアルや、彼の導き手であるシャンクスのコンセプトアートを垣間見るだけでも、その本気度は十分に伝わってくる。パーティズバーでくつろぐ幼いルフィ、赤髪海賊団のシャンクスと副船長ベン・ベックマン、そして店主のマキノ。そこには確かな生活の温度がある。

ゴムのような体を持つルフィが、個性豊かな仲間たちを集め、伝説の海賊王ゴールド・ロジャーが残した謎多き財宝「ワンピース」を求めて海へ出る。1997年に連載が始まり、2026年3月時点で世界累計発行部数6億部を突破したこの巨大な物語は、1999年から20シーズン以上続くアニメ版、そして2023年に幕を開けたNetflixの実写版(早くも2027年にシーズン3が控えている)と、常に姿を変えながら進化を続けてきた。

今回の『THE ONE PIECE』シーズン1では、原作の最初の50話分を全7エピソード、計約300分という濃密なランタイムで描き出すという。海上レストラン「バラティエ」の副料理長、サンジとの出会いまでを一気に駆け抜ける構成だ。

何より私の胸を躍らせるのは、この再構築に集結したベテランクリエイターたちの顔ぶれだ。

・監督:肥塚正史(『進撃の巨人』『ムーンライズ』) ・副監督:阿部英明(『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE 〜2人の英雄〜』キーアニメーター) ・シリーズ構成:岸本卓(『SAKAMOTO DAYS』『ぶっちぎり?!』) ・キャラクターデザイン・総作画監督:浅野恭司(『SPY×FAMILY』『進撃の巨人』)、本多敬之(『虚構推理』) ・クリーチャーデザイン・イメージボード:梶野靖弘(『虚構推理』『バットマン:アンダー・ザ・レッドフード』) ・プロップデザイン:田口愛梨(『劇場版 チェンソーマン レゼ篇』『BORUTO -NARUTO THE MOVIE-』) ・アクションアニメーター:今泉健(『ムーンライズ』)、福田周平(『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユアネクスト』) ・美術監督:黒田友範(『とある科学の超電磁砲』) ・アニメーションプロデューサー:河村良麻(『進撃の巨人』)

これほど妥協を排した布陣は、まるで伝説のバレエ演目に最高峰のオーケストラと気鋭の演出家を配置するようなものだ。チュチュを纏ったアヒルが踊る不器用で美しいおとぎ話も、ゴム人間の少年が果てしない海へと漕ぎ出す壮大な冒険譚も、等しく私たちに「物語の底力」を見せつけてくる。

決められた運命の台本をどう打ち破るのか。そして、自分の居場所をどう見つけるのか。かつてジャンルや体裁で物語の価値を履き違えていた私は、今なら何の衒いもなく、素直にその新たな出航を待ちわびることができる。2027年、新たな風が吹く海で、私たちはまた違う自分に出会うのかもしれない。