
「ボディスワップ(入れ替わり)コメディ」と聞くと、大抵は複雑な人間模様を思い浮かべるはずだ。『13 ラブ 30』や『オール・オブ・ミー』といったこのジャンルの佳作は、人格のジャグリングが激しく、頭がクラクラするような体験をもたらしてくれる。最近のピクサー映画『Hoppers』もそうだった。スケボー好きの大学生が、実はロボットのアバターだったビーバーの体に入り込んでしまうのだから。しかし、Netflixの新作ケモノ系コメディ『Swapped』は、そうした複雑さとは無縁の場所にいる。徹底して極端に若い層に向けて作られているのが肌で感じられるが、これは決して嫌味ではない。
物語のレベルで言えば、本作は驚くほどシンプルだ。要するに「7歳児向けの森のおとぎ話」なのだが、不思議な魅力に満ちており、視覚的な美しさに目を奪われ、気がつけばホロリとさせられたりもする。『塔の上のラプンツェル』の共同監督という輝かしい経歴を持つネイサン・グレノがメガホンを取り、彼が作り上げた「バレー(谷)」と呼ばれる緑豊かな風景は、見慣れた自然のようでいて、空に向かってそびえ立つ岩山にはどこか太古の神秘が宿っている。
谷に住む生物たちは、しなやかでファンタジックな造形をしている。マイケル・B・ジョーダンが実直な声で演じる主人公オリーは「プークー」と呼ばれる部族の出身で、見た目は普通のラッコだ。彼らは、フクロウオウムのような姿でサイケデリックなほど鮮やかな黄緑色の羽を持つ「ジャヴァン」族と資源を巡って小競り合いをしている。周りの生き物も、背中に植物を背負った魚や、頭と尻尾から赤い枝葉を生やしたツリーウルフ、さらには直立するグリズリーベアのような藻に覆われた川石など、少しシュールなハイブリッドばかり。文字通り全身が燃え盛る怒れる狼「ファイアウルフ」という神話的な悪役もいる。
事の発端は過去の回想にある。子供の頃のオリーが、ジャヴァンの少女アイヴィー(声:ジュノー・テンプル)と出会い、自分の部族の食べ物「ピプレット」を分かち合ったのだ。アボカドの種のような艶やかな種が4つ詰まったその豆の鞘を教えたことは、当時の彼にとってはささやかな親切心のつもりだった。だが、これが大惨事の引き金となる。レイ・ハリーハウゼンの特撮映画に出てくる巨大鳥を彷彿とさせる、気高く巨大な大人のジャヴァンたちがピプレットを大量に消費し始め、プークーたちは食糧難に陥ってしまったのだ。本作は『Hoppers』と同様に、対立する動物のグループが生き残るために協力することを学ぶというエコロジカルな寓話になっている。昨今のこの手の映画は、どれも現代世界のアレゴリーだ。
成長したオリーとアイヴィーが、互いの種の体に入ってしまうことで、その協力精神が芽生え始める。厳密には「入れ替わった」のではなく、最後に口に出した動物に変身してしまう魔法の光るラベンダー色の鞘に触れてしまったからだ。いかにも小さな子供が考えそうな魔法のアイテムだろう。アメリカ人らしい不満げなガッツを持つオリーは巨大なジャヴァンになり、英国的なお説教くささと優雅さを持つアイヴィーはラッコのようなプークーになってしまった。大自然の中で迷子になった二人は、嫌でも友人にならざるを得ない。オリーが空を飛ぶことを学び、アイヴィーがラッコのように動き回ることを学ぶシークエンスは実に爽快だ。
このように、動物たちを通して世界を描く寓話には、純粋な魔法が宿る瞬間がある。だが一方で、そのテキストの力に監督自身が呑み込まれ、ひどく歪んでしまうこともある。ジョージ・オーウェルの革命的寓話『動物農場』に対する、アンディ・サーキス監督による不可解な映画化は、まさにその後者の極みだ。率直に言って、これはひどい。『寝取られ男のラブ♂バケーション』の脚本家がどうしてこのストーリーを書いたのかも全くの謎だ。
偉大なるオーウェルにとっては小さな後退であり、俳優兼監督であるアンディ・サーキスの「自由意志の不可解な行使」という意味では大きな飛躍と言えるかもしれない。15年以上の歳月をかけた情熱の結晶であるこの新作アニメーションは、ようやくアメリカの劇場に並んだわけだが、正直なところ月面で制作されたと言われた方がしっくりくるレベルの代物だ。
この奇妙な計算違いは、決してIPを利用した冷笑的な金儲けなどではない。『ロード・オブ・ザ・リング』のアイコンである彼が作り出したものとしては、もっと奇妙で、最終的にはるかに憂鬱な気分にさせられる何かだ。歴史的なフィクションに対する思い入れの深い解釈が、過去10年の間に「畏敬」と「再構築」の狭間で完全に迷子になってしまったように思える。これは、反ファシズムの寓話というオーウェルの意図を監督が誤解したというよりは、野心的な映画作家が原作の持つパワーを自分の手の中でねじ曲げてしまった結果なのだろう。
執着に取り憑かれたキャラクターを演じることでキャリアを築いてきた先駆的な英国俳優にとって、このプロジェクト自体が意図せぬ象徴性を帯びてしまっているのは皮肉な話だ。サーキスがストーリーテラーとして何を意図していたにせよ、この映画は、コントロールを失った後も死に物狂いでしがみつき続けた「間違ったコンセプト」の展覧会のように映る。かなり寛大に見積もっても、本作を観る体験は、廃墟となった映画館の地下室で羊に脳外科手術をされているような気分だ。
人間の農場主が破産したことで勃発した序盤の革命は、世間知らずの子豚ラッキー(ゲイテン・マタラッツォ)と狡猾なイノシシのナポレオン(セス・ローゲン)がリーダーの座に就くことで、ファシスト的などん底へと転がり落ちていく。約束されていたはずのユートピアが腐敗の重みで崩壊していく様を、ラッキーはただ見ていることしかできない。その崩壊に拍車をかけるのはナポレオンだけでなく、せっかく動物たちが手に入れた自由を奪い返そうと企む人間側のピルキントン社からの外部圧力だ。
時折グロテスクさを交えながら進むこの混乱した体験は、オーウェル的な恐怖をマーベル映画ばりの見世物へとすり替えたクライマックスで頂点に達する。ディズニーとサーキスのスタジオとの過去の提携がもたらした副作用なのは間違いないだろう。構造上の欠陥は序盤から露呈しており、オーウェルの原作を特徴づけていた革命そのものが開始6分で片付けられてしまうのだ。46分経つ頃には、もはや動物たちは平等ではなくなり、残り半分の尺を全く新しいオリジナル展開で埋める羽目になっている。その中には長々とした企業間戦争の物語や、ドーパミン消費のメタファーまで含まれており、上映時間を無駄に引き延ばすばかりで、寓話としての輪郭を致命的なまでにぼやけてさせている。
