
最近のエンタメ業界の動向を追っていると、社会の急激な変化がいかにして物語に昇華されるのか考えさせられる。クラシックバレエが優雅な跳躍と美しさの裏で、極限の肉体的負荷や残酷なまでの鍛錬を隠しているように、一見すると大衆向けのエンタテインメントもまた、その仮面の裏に社会の不安や深刻な病理を巧みに織り込んでいるのだ。
たとえば、現在放送中の髙石あかり主演によるNHK連続テレビ小説『ばけばけ』。先日の第84回の世帯視聴率は15.5%を記録し、依然として高い関心を集めている(ちなみに番組の最高記録は第52回の16.5%だ)。本作は、松江の没落士族の娘である小泉セツとラフカディオ・ハーン(小泉八雲)をモデルに、西洋化という抗えない時代の波に飲み込まれ、埋もれていった人々の姿を静かに描き出している。作中では、サワと庄田が一緒にいるところに、トキとヘブンが偶然出くわすという展開があった。庄田との予期せぬ再会に驚きつつも、サワとの久々の会話に顔をほころばせるトキ。その傍らで、ヘブンと庄田はすっかり意気投合し、ヘブンは二人を自宅へと招き入れる。庄田との会話に没頭するヘブンに感謝しながら、トキはサワとじっくり向き合うのだが、数日後、なぜか庄田が一人で再びふらりと訪ねてくる。この日常の機微に潜む人間関係の揺らぎは、激動の明治日本という背景と相まって、えも言われぬ余韻を残している。
興味深いことに、この「時代の変化に対する不安や、そこからこぼれ落ちるマイノリティ」というテーマは、舞台を現代に移すとまったく別の「異形」となってスクリーンに現れる。その最たる例が、『新感染 ファイナル・エクスプレス』で知られる韓国の鬼才、ヨン・サンホ監督の新作ホラー・スリラー『Colony』である。カンヌ国際映画祭のミッドナイト・スクリーニング部門でお披露目された本作は、瞬く間に北米やヨーロッパ、アジアなど120以上の地域での配給が決まり、商業的にも多大な熱狂を生んでいる。チョン・ジヒョン演じる教授が、バイオテクノロジーの会議で急速に変異するウイルスが解き放たれるのを目の当たりにし、感染者が未知の変貌を遂げるなか、生存者たちを率いて閉鎖空間からの脱出を図るという物語だ。
ヨン監督が今回生み出した新たなゾンビのインスピレーション源は、意外にもAI(人工知能)の台頭にあるという。かつてジョージ・A・ロメロが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で当時の社会的な恐怖を具現化したように、監督は「現代における最大の恐怖とは何か」を自問した。その答えが、高速なコミュニケーションの応酬が生み出す「集合知」だったのだ。それはまるで一つの巨大な生命体、あるいはAIのように振る舞い、少数派の思想を容赦なく押しつぶしていく。この同質化への恐怖こそが、新たなゾンビの正体なのだ。『新感染』が資本主義の普遍的なテーマと本能的なサスペンスを融合させていたとすれば、あれから月日を経て作られた『Colony』は、現代のネット社会に対する不安を色濃く内包している。本質的には、自身の変化というフィルターを通した『新感染』の再解釈とも言えるだろう。
ネットフリックスなどのプラットフォームでの制作が続いていた彼が、ここへきて再び劇場用映画にこだわった理由も示唆に富む。自宅のリモコン一つで手軽にコンテンツを消費できる便利な時代だからこそ、映画館という空間で他者と時間や集中力を共有し、鑑賞後の圧倒的な感情を抱える体験の価値が見直されている。実際、深刻な危機に陥っていた韓国の映画館界隈でも、長編映画をあえてスクリーンで楽しもうとする若者が増えるという逆転現象が起きている。監督にとってのカンヌもまた、そうした映画体験の熱量の象徴だ。2012年にインディーズアニメ『我らが豚の王』で監督週間に出品して以来、カンヌのフィルムマーケットで世界中の多様なジャンル映画の熱気に触れたことが、今の彼の創作の強力なエンジンになっている。
彼の創作意欲はまだまだとどまることを知らない。エドワード・ヤンや黒沢清といったアジアの巨匠たちのインディペンデント映画に影響を受けたという次回作『Paradise Lost』では、AIを使って死んだ息子を蘇らせる母親の姿を描き、近々どこかの映画祭で発表される見込みだ。さらに、ゾンビを治療しようと試みる外科医を描いた小説『Dr. Apocalypse』(映画化の可能性もあるという)や、東宝の1960年の特撮映画をリブートするネットフリックス作品『ガス人間第1号』(The Human Vapor)なども控えている。明治の世の急速な西洋化から、現代のAIの脅威まで。私たちが直面する不安は常に形を変えて現れるが、それを捉え、エンタテインメントとして昇華させるクリエイターたちの眼差しは、いつの時代も鋭く、そしてどこか生々しい。
